本校は、創立65周年を迎えました。

― 歩んだ65周年。これからも、遠くまで。―

本日、狭山ヶ丘学園は創立65周年を迎えました。

昭和35年の開校以来、多くの生徒たちが巣立ち、それぞれの夢へと歩みを進めてきました。

保護者の皆様、卒業生の皆様、地域の皆様、そして本校に関わってくださったすべての方々の支えがあってこその65周年です。心より感謝申し上げます。

これまでの歩みを礎に、これからも教育理念のもと、生徒一人ひとりの可能性を信じ、ともに歩み続けてまいります。

歩んだ65周年。これからも、遠くまで。
狭山ヶ丘学園は、未来へ向けて、これからも弛まぬ努力を続けて参ります。

創立65周年によせて

教員の写真

小川 義男

理事長・校長

北海道生まれ。
『あらすじで読む日本の名著』(中経出版)、『気品のある生き方』(中経出版) など著書多数。テレビや雑誌、その他メディア等でも活躍。
北海道および東京都の公立小学校・中学校の教諭、教頭、校長を歴任し、平成8年より現職。
平成22年より埼玉県私立中学高等学校協会会長に就任。
平成29年11月 瑞宝小綬章を受章。
令和2年より学校法人狭山ヶ丘学園理事長。

65周年とは、凄いと思う。

私が旧制中学校3年の時、母校である「北海道庁立滝川中学校」の記念祭があった。校庭で全員が踊った。「おらが滝中に 祭が来たよ  27つの、ええまた 明けの鐘」という音頭に合わせて、皆で歌い、踊った。しかし、振り返ってみると、創立以来の27年間が、意外にも短い歳月だったと感じた。

北海道学芸大学札幌分校では、開学70周年を祝った。私は大学祭の実行委員長だった。屋上から「垂れ幕」を下ろし、「平和と民主主義 民主教育の為 70周年祭を成功させよう」と全体に呼びかけた。私も若かった。振り返ると、「それでも歴史は70周年」でしかなかった。

学長と交渉して、まんじゅう3000個を出してもらった。昼近くにはお客様にも配った。それを契機に、大学の歴史が変わったように感じる。しかし、その「大学の歴史」も、わずか「70周年」であった。

今も、ちよ先生のことが懐かしくてたまらぬ。今年、学園は創立65周年を迎えた。ちよ先生は、おられないが、その懐かしさがしみじみと胸に迫る。以来、歳月を重ね、卒業式も65回目となった。責任の重さを痛感するとともに、ちよ先生を懐かしむ心も、ひとしおである。

もともと私は、本校に「総務部長」として着任した。実際には英語教師であった。椅子はバー用の高い椅子、机はなかったように思う。給料も格安で、卓球部が中国からの留学生を招いたときには、保証人になる必要があった。所得があまりに安かったので、卓球部の顧問で、県一番と言われた宮本善さんが驚いたほどである。

私は、ただもう「高校生に英語を教えたい」という一心だった。もともと公立校長の年金を受け取っていたので、暮らしは何とかやりくりできた。毎日が楽しくてたまらなかった。自分なりに英語を教えることができたので、毎日が幸せだった。給料は劇的に安かったが、もし早稲田の大学院に合格すれば、週2回通わせてもらえることになっていた。「受かるはずがない」と思いながらも受験してみた。出題傾向を見て、翌年通うつもりでいたが、なんと合格してしまった。

とはいえ、学園での仕事も大切だったので、週2回だけ早稲田に通うことにした。合格も嬉しかったが、早稲田での日々も本当に嬉しかった。

ちよ先生は、学園に来ると「今日、小川先生は?」とおっしゃり、「小川先生は大学院です」と聞くと、そのままお帰りになったこともあったという。

結局、大学院には週1回、あとは土曜午後だけ通学した。でも、早稲田での日々はとても楽しかった。学部は「商学部」である。

高校1年生と3年生の英語を担当していた。楽しかったが、当時は英文法にあまり自信がなかった。今は亡き妻と議論して購読していた新聞を、日本の新聞から『Japan Times』だけにした。都立研究所に勤めていた頃のことである。辞書は使わなかった。

「お前も大卒なのだから、英字新聞くらい読め」と言って、妻を困らせたこともあった。今、彼女はいない。しかし、彼女には凄いところがある。文章力をつけるため、私の指導を受け、夏目漱石の『草枕』を全文書写したのである。進歩は見事であった。

私は英文法を、狭山ヶ丘に来てから学び直した。まだ十分とは言えないが。

ある年の1年生に、特に印象に残る女子生徒が2人いた。勉強はよくできたが、いたずら好きで手を焼いた。彼女らは、よく学び、1人は学習院を経てイギリスの大学へ進んだ。もう1人は薬剤師になった。当時の本校にとっては、トップクラスの成果だった。狭山ヶ丘はそうした生徒たちの努力の上に、進学校としての道を歩み始めた。しかし、夜間授業の際などには、2人はかなりのいたずらもした。窓から逃げたりもした。今となっては、懐かしい思い出である。

その後、大学進学実績は確実に伸びていった。今後もさらに、じっくりと実績は伸びていくものと思う。私も、なお一層努力しなければならない。

現在、国内の人口は減少している。また、同盟国アメリカに政治的動揺が見られる。

このような状況だからこそ、学校はしっかりしなければならない。教育を通じて同盟関係を固め、日本の未来を確立しなければならない。市民の皆様に訴え、生徒諸君の叡智に期待しつつ、本校教職員に学びながら、近藤ちよ先生が築かれたこの学園を守り抜く決意である。