2022(令和4)年度入学式を挙行しました

4月7日(木)に、2022(令和4)年度入学式が挙行されました。新入生の皆さん、そして保護者の皆様におかれましては、ご入学おめでとうございます。本校職員一同、熱意溢れる新入生の皆さんのご入学を心より歓迎いたします。

新型コロナウイルス感染症対策のため、昨年に引き続き規模を縮小しつつも、本年度より最少人数ではありますが吹奏楽部による入退場時の演奏を再開し、厳粛のうちに盛大に執り行いました。

学校長式辞並びに理事長告辞

理事長・校長 小川義男

狭山ヶ丘高等学校、並びに同付属中学校の新入生諸君に、心から「入学おめでとう」と申し上げる。同時に保護者の皆様にも、この度のご入学に「誠におめでとうございます」と、謹んでお慶び申し上げる。私共教職員一同、力を尽くして大切なお子様をお預かりし、全力を尽くして彼らの輝かしき未来のため努力することをお約束申し上げる。

言うまでもなく、中学校、高校は、学問並びに身体を健やかに伸長させることを使命とする教育機関である。教師は力を尽くしてその使命を全うするが、生徒諸君にも、己の未来のため、厳しく努力し続ける決意を新たにしていただかなければならない。三年あるいは六年の長きにわたって、決意も新たに努力し続けていこうではないか。

フランスの詩人アラゴンに、「学問とは 永い永い忍耐」という言葉がある。学問とは忍耐なのである。弱き己に鞭打って、厳しく耐える決意を燃やし続けることである。アラゴンはさらに言う。

「教えるとは 希望を語ること 学ぶとは 誠実を胸に刻むこと」

諸君がこの学園に生きる日々は、決して安易な日々ではない。むしろ、一定の苦しみを伴うものである。

人間に生まれながらの能力差はない。あるのは、辛さに耐えてやり通そうとする意志の強さがあるかどうかである。

大埼玉に偉人は珍しくないが、私は最大の偉人として、全盲の文学者、塙保己一先生を挙げる。先生の逸話は、いずれ諸君を指導する先生たちから教わってもらいたい。また、私が世界で最も尊敬する方は、ヘレンケラー先生である。先生は、「もしあなたが、三日後に視力を失うとしたら、その三日間、あなたは何を見つめていたいですか。」と問うた後に、「私は目が見えません。でも私が、三日だけ見えるとしたら、ああ、三日だけ見えるとしたら、私は何を見ていたいでしょうか。」と続けた。私は、これを英文で読んでいたのであるが、彼女は、「その三日間、サリバン先生の顔を見ていたい。」と続けたのである。読んでいた私の目からは、涙がどっと溢れた。サリバン先生には及ばずとも、精一杯に力を尽くす、それが、諸君を迎える本校全教職員の決意である。

本校は進学校である。ほぼ全員が大学進学を目指す。私は、諸君と共に県トップの進学校を目指さなければならないと考えている。それは可能か。私は断じて可能だと考えている。

高等部一年に関しては、四月二日から希望者全員に「入学前英語特別講習」が行われ、英語科の教師と私がこれを担当した。やはり「学問とは忍耐」である。

七十年余の昔になるが、世界は白人の支配するところであった。その是非はともかく、これに抵抗する日本の戦争は、世界情勢転換の一大契機となった。アジア、アフリカに独立の動きが起こったのは、この戦争以来である。

日本は敗れたが、勝利したアメリカ占領軍は、日本の教育思想を根本的に改めようとした。その中で創造することの重要性が強調され、また反面、知識の定着、記憶することの重要性は軽視されるようになった。

諸君に理解してほしいが、知識の定着なしに学問など成立しない。重要なことは、しっかり記憶すること。このことの大切さを忘れてはならない。

英語でも数学でも、理科、社会でも、必須の知識をしっかりと覚えること、それなしに学問は成り立たないのである。学問には、それを学ぶ上での必須の知識が相当量ある。学んでいくなかで、自然に定着もするが、意識的、意図的に記憶せねばならぬことも少なくない。

今ひとつ。テレビ、携帯は役にも立つが、害となることもある。

医師を育てる教育に関するアメリカの映画を見たことがある。ある場面で、教授が厚さ15センチはある医学書をテーブルの上にどんと置き、「これを記憶しなさい。大体ではない。全部です」という場面があった。記憶を軽視し、過度に思考の重要性が強調される時代であったので、爽やかな印象を受けたことを、私は記憶している。

思考は考えられないほどに重要だが、知識もそれに劣らぬほど重要だということを心に定着させてほしい。知識は思考に通ずる。覚えるべき事項を覚えずに、思考に頼ろうとするのは、木に縁りて魚を求むるに等しい。英語の単語熟語が豊かではないのに、読解や英作文を習熟するのは無理である。学力の基礎には、言語に対する蓄積が必要である。英語の単語熟語、さらにその基礎には、日本語の基礎力が求められる。学校が読書、新聞に親しむことの大切さを強調するのはそのためである。

古典に限らず文学に親しめ。活字の向こうには天才がいる。菊池寛先生は、「文芸は実人生の地理歴史」と言われた。玩味すべき言葉ではないか。

最近は、生徒諸君に耐える力が不足してきているように思う。国家全体の教育が、子供の機嫌を取ったり、保護者が厳しく子供を育てようとするのを軽々に否定する傾向があるからだと私は思う。叩いたり殴ったりするのは良くないが、そこは親子だ。多少は子供にも耐えるところがなくてはならぬ。

学校も小学校以来、子供に厳しく注意することが少なくなった。それは、優しさではなく教師の保身になってはいないかを、厳しく反省しなければならぬ。私のように長く教壇に生きた教師は、「優しさは大切だが、それが教師の保身につながってはならぬ」と、時折考える。もしかするとその優しさが、子供のためではなく、教師自身の保身につながっているかもしれないのである。厳しく反省しなければならぬ。

「読売」の論文は素晴らしい。「朝日」の天声人語は、文章の手本として、毎日書写してはどうか。メールではなく、友人に毎日はがきを一枚書くのも素晴らしいと思う。やがては、それを英文に変えてはどうか。

私たち教師は、諸君の師であると共に、生徒こそ我々の師でもあると考えている。

いよいよ高校生活、私立中学校での生活が始まる。教師も、諸君との触れあいから多くを学ぼうとしている。

さあ、師弟手を取り合って素敵な学園生活を送り、輝かしい人生を勝ち取っていこう。

朝は親に感謝せよ。昼も親への感謝を忘れてはならない。夜、布団に入ったとき、「世話になったなあ」と考える人間的豊かさを持て。

私は諸君に接してしみじみ思う。若い君らが羨ましい。その若さを武器に、新入生よ、世界に羽ばたけ。